事務所から少し離れた筋に立つ、昔ながらの木造建築には珍しい3階建ての家が、倭達の住家となっていた。
 実際には、外海家と表札にある通り、妃が両親と共に住んでいた場所だったが事情により今は妃と、そして居候として倭が二人で住んで居る。
 が、今日は様子が違った。
二人で住むには広すぎた家の、普段は使われていない一部屋で、すっかり疲れきって眠りについている智を確認して居間へと戻ってきた倭を待っていたのは、昼間の一件からひたすら険悪な空気を纏った妃の視線だった。 「…どういうつもりだよ…」
明らかに機嫌を損ね、苛立ちを抑えきれない声音の妃にも、相変わらずのおどけた表情を保ってみせる。
「何が?」
「何がじゃねーっ!本気でこの件を請ける気かよ!?」
「そうだよ?」
「俺は反対だからな!!」
昼間の事務所での言い争いとは明らかに空気の違う二人。

勝手に仕事を請けた事に対しての怒りではない。相手が等々力グループだという事も妃には関係なかった。
久々の大きな仕事。普段なら断ったりはしなかっただろう。
ただ一つ。
どうしても引き受けたくない点があった…
それを
妃が反対する理由を知って居るのに、あの判断を下した倭が許せなくて
「あいつはあの魔族なんだぞ…WIZORD設立の原因にもなった、俺達が闘ってきた!あいつらは残虐で凶暴で…人だって簡単に殺しちまうような奴等なんだ!!それをっ…」
WIZORDに所属していた頃から、何度となく闘ってきた魔族。協定締結後も、一部の魔は尚人間を脅かしている。
妃がWIZORDを脱隊する原因を作ったのも、今尚拭いきれない程大きく深い心の傷を作ったのも、全てはその魔族の起こした事件だから。
智は その‘魔族’だから…。

取り乱したように声を荒立てる妃の言葉を倭は短く遮った。“そうだな”と、変わらない穏やかな声で。
そのまま、目の前の妃を見据え、笑顔で口を開く。
「でも…智くんは違うだろう?」
「…?」
完全に勢いを失った妃は、ただ言葉の真意を掴めず不思議そうに見返す。
が、続けられた言葉に、一瞬表情を強張らせた。

「妃の言ってる…仇の魔族とは、さ」
疼きだす胸の奥の傷を巧く抑えられない…2年経った今でもまだ癒える事ない強いトラウマに、倭は爪を立てるような発言をしたのだった。
言葉を失い、ただその場に立ち竦んだ妃の、血の気のひいた顔に右手で軽く触れる。
妃の心中が、表情に表れているそれよりも激しく混乱してるだろう事は簡単に想像がついた。
こんなやり方でしか、今妃と向かい合えない自分に、軽く自嘲の笑みを浮かべる。

「妃も、本当は解ってるんだよな?…いきなり魔族って言われて、戸惑ったんだよな」
WIZORDとして、仕事屋として…中立組織である彼らが魔族に対して一方的な敵意を持つ事は許されない。それは、妃自身も充分理解している事。
たとえ妃が魔族に敵意を持っていたとしても、この仕事を続けるなら、この時代を生きるならばそれは乗り越えねばならない事だ。
このやり方が妃にとって酷であっても…倭はこの件によって妃に乗り越えさせねばならなかった。
それが、妃を預かった自分の役目。
だからわざと、この件を引き受けたのだった。
「俺達の仕事は“魔族対応”であって“魔族退治”じゃない。少しでも魔族が関わる事件なら魔族を助ける事だって充分俺達の仕事になるんだ」
「っ…それは……解ってる、けど…」
倭の言葉に誤りはない。解っているから、言い返す言葉が見つからない。
けれど黙っている事も出来なくて…。
「なぁ妃…智くんもただ守りたいんだよ。仲間を…もしかしたら人間に捕まった魔の中に、あの子の家族だって居たかもしれない。何も変わりなんてないじゃないか」
息が詰まった。
― 同じ… ―
大事な者を奪われた。これ以上奪われたくない…その気持ちに、魔も人も違いなどない筈だろう、と…。
あの少年も、自分と同じなのだと…?

「それに、困っている人は助けましょう、がウチのモットー。相手が『何者』であれ…な?」
そう笑顔を向ける倭に、ただ俯いて息を吐く。
解っている。倭の言っている事も、それが自分に何を求めているのかも…
だから…
「あぁ…そうだな…」
静かに、ただ一言そう発した妃に、安心したように2、3度軽く彼の頭を撫でると、倭は自室へ戻って行った。
扉が閉まっても、その場から動けない…。
ゆるゆるとした動作で妃は鏡の前に置かれた写真に目を向けた。
穏やかに笑う。本当に仲の良かった夫婦の幸せそうな姿…。
「俺と…同じ?あの魔族が…?」
震える手で持ち上げた写真に、呟きと共に一粒の雫が落ちる。

― 何も変わりなんてないじゃないか ―

胸の中で繰り返される倭の声。
涙を堪えて必死に訴えかけてきた少年の姿…。
(…解ってるよ…)
妃は、一度軽く首を振ると、写真を元の位置に戻し部屋を後にした。

昏い瞳のままで…